オフイビラ源吾と晩成社

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明治15年(1882年)7月晩成社の依田勉三と鈴木銃太郎は視察調査のため本別を訪れています。

本別町史よると

その際にオフイビラ源吾の家に行きと帰りに立ち寄っています。
19日に宿泊しています。
21日には源吾のところにあった鹿肉を お米とタバコなどと交換しています。

十九日、(略)二時、オフユビラ源吾氏の家に到る。(略)同所に宿す。

二十一日、(略)十一時、オフユビラに到り、舟を呼び、川を渡りて、再び源吾氏の家に到る。(略) ここに(略) 鹿肉あり。米二合と烟草(たばこ)一包(価十二銭)とを以て、一大股の肉と交換し、舟に乗る。

また「オフユビラに到り、船を呼び、川を渡りて、再び源吾氏の家に到る」とあります。
近くに渡船場があったようです。

本別町史から引用

渡船場   昔の河川は、主要な交通路ではあったが、同時に、対岸への交通の一大障害でもあった。このため、入殖当時は結氷期以外は、アイヌ系住民の使用していた丸木船を利用し、あるいは馬に乗り、または徒歩によって、浅瀬を求めて対岸と往復したものである。その後、人馬の来往が多くなるにしたがい、交通上の要所に、つぎつぎと、渡船場が設けられた。

設置別 渡 船 場 名 設置年月日 渡船数及び種類 河 川 名
人渡舟 馬渡舟
(1)官設 本別村 1 1 利別川
(2)〃 〃   34線 明35/5/1 1 1
(3)〃 押帯チエトイ 〃36/3/31 1 1
(4)私設 本別村 〃39 1
(5)官設 足寄太57線 〃42/3/26 1 1
(6)〃 〃 仙美里49線 〃43/8/4 1
(7)官設 美里別西1線11 〃44/11/1 1 美里別川
(8)私設 幌蓋16線 〃41/8/10 1 1 利別川
(9)〃 美里別東1線 〃42/5/4 1 1 美里別川
(10)官設 美里別基線22 〃43/8/4 1

( 略)(3)の官設渡船場は、和人入殖以前からアイヌ系住民によって丸木舟ですでに渡船場が開かれていたもののようである。依田勉三、鈴木銃太郎もここから渡っている。(なお、地名の押帯は、現・負箙を指す

今の本別発電所あたりでしょうか?

およね
およね
押帯(オショップ)が負箙(オフイビラ)?
歴史から消えた負箙(オフイビラ) 写真は地域の元負箙小学校の建物です。昭和45年に統合されてから、しばらくの公民館分館としてその後地域の集会場として使われていました。 ...

後にも先にも源吾が出てくるのはこれっきりでした。
一体何者だったんでしょうか?

依田勉三と鈴木銃太郎は、利別川沿いから美里別川沿いにオキラウンべ(川?)まで視察しています。

ピリベツ川に沿ひ行くこと二里、オキランベに出でて(略)の家に入り、行厨(べんとう)を開き、鱒魚を乞ひて食す。

のちにバッタの駆除の際、美里別も対象地域になっていましたけど、このあたりだったんでしょうか?

バッタ塚  蝗害〜十勝内陸の開拓へ本別町チエトイの『バッタ塚』 本別町負箙(オフイビラ)地区のとなり、チエトイ※地区にバッタ塚があります。小さい頃バッタ塚のバッタってど...

また、黒い犬と勘違いして熊にも飛びかかられています。

二十一日、(略)ここに異形の黒犬出て、勉三、銃太郎に向って飛掛らんとす。(略)時に一童子来り云う。是は犬に非ず、熊なりと。已(さいわい)にして叱して小屋に追入れたるは亦一興なり。

「叱って小屋に追い入れたる」ってことは飼われていたのでしょうか?

以下、
依田勉三、鈴木銃太郎が本別を視察調査したことが本別町史載っている部分を引用(文中「土人」今では差別用語ですが、そのまま載せてあります。当時、差別する意味で使っているのかはわかりません。鈴木銃太郎はこの年の暮れから翌年にかけて一人残り、帯広で現地のアイヌの方に助けられながら越冬し、親交を深め、のちに現地のアイヌの女性と結婚しています。)

(p157)晩成社幹部の本別地方踏査  明治十五年七月、前年につづいて二度日の十勝入りをした晩成社の依田勉三は、鈴木銃太郎とともに入植予定地の帯広地方を視察ののち、利別川筋を本別までさかのぼっている。次に掲げたのは、両人の視察記のうちの本別地方関係の記事である。

十八日、午前陰、午後雨。歳別太藤木氏を発し、歳別川を溯る。一里にしてセイシビラを過ぎ、午時、磧にて昼食す。

日暮れて雨勢甚し。近傍人家を見ず。七里にしてケナシバに到り、土人の家に宿す。此日経過の地、小平原ありと雖も、多くは沼沢にして、流水に乏し。而して本川は迂回し、沿川の山は到る所、山脚を伸べて川流を包むが如し。故に眺望広からず、常に四面に山を見る。

十九日、細雨。ケナシバを発し、オルベニ、イサムビタラに上陸し、地景を察す、地景昨日と同じ。二時、オフユビラ源吾氏の家に到る。里程僅に三里半なり。身心手足共疲れて棹さすに堪えず、雨中行進に艱(なや)めり。為に同所に宿す。

午飯後、衣服を乾し、薄暮、近傍を排徊して地形を察す。小山四続して清流あり。地味肥良にして小村落を開くに適せり。

二十日、晴。是より上流溯り難きに非れども、連日の舟行に倦みたるを以て、此処に舟を繋ぎ、土人に旅具を負わせて二人山路を行く。ピリベツ川に沿ひ行くこと二里、オキランベに出でて土人の家に入り、行厨(べんとう)を開き、鱒魚を乞ひて食す。十余町を下り、又、土人の家を過ぐ。ピリベツ川を渡り、山を越え、沢に入り、又平原を経過し、四里にして歳別川を渡り、ピリベツプト樵夫(きこり)の家に投ず。オフユビラよリピリベツプトにいたる、痩土に非るも小流に乏しく、且、地域狭隘なり。

二十一日、晴。夜雨降る。ピリベツプトを発し、ボンベツを渡る。途中、土人の家あり。ここに異形の黒犬出て、勉三、銃太郎に向って飛掛らんとす。顧みて杖を挙げて逐わんとすれば、尚、進みて、杖を奪い取らんとす。時に一童子来り云う。是は犬に非ず、熊なりと。已(さいわい)にして叱して小屋に追入れたるは亦一興なり。

十一時、オフユビラに到り、舟を呼び、川を渡りて、再び源吾氏の家に到る。里程僅に二里半なり。ここに土人の鹿肉あり。米二合と烟草(たばこ)一包(価十二銭)とを以て、一大股の肉と交換し、舟に乗る。五時半、歳別太にいたり、武田菊平氏の家に宿す。

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