バッタ塚 蝗害〜十勝内陸の開拓へ
本別町チエトイの『バッタ塚』
本別町負箙(オフイビラ)地区のとなり、チエトイ※地区にバッタ塚があります。小さい頃バッタ塚のバッタってどんな意味なんだろう?ずーっと思っていました。本当にトノサマバッタのバッタとは、、、。映画「北の零年」でバッタの大群に襲われるシーンがあったけど大げさな表現だなぁと思ったけど、本別町史を読むとそんなに大げさとも言えない……
(※チエトイ=アイヌ語で我ら・食べる・土=食用土の意味?)
以下本別町史より
蝗虫の駆除 明治十三年から十七年まで、連続五ヵ年にわたったトノサマバッタの大発生による、いわゆる蝗害は、本道開拓史上、異色の災害であった。明治十三年八月、十勝国河西・中川両郡に発生したトノサマバッタの大群は、付近の青草を食いつくしたのち、風にのって西に向い、同月二十一日には日高国にはいり、数日後には胆振国に達した。ここから分かれた一群はさらに北進して石狩国を襲い、被害は十五郡におよんでいる。
バッタ塚 本別地方の二地区(チエトイ地区と美里別地区)を含む十勝外四郡八地区の産卵地の大規模な駆除事業は、十七年に春と夏の二回にわたって行われている。
春は蝗卵(トノサマバッタの卵)の駆除を自的とした
(中略)
卵のある土は百坪に一塚の割合いで積立て、その表面を卵のない土でおおい打ちかためたという
明治初期の蝗害
蝗害のことについてウィキに詳しく、しかも簡潔に載っていました。(脱帽)
(「蝗害」(2018年6月8日 (金) 10:07 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』)
から引用
トノサマバッタによる蝗害
(中略)
1879年(明治12年)からトノサマバッタ発生の兆しはあったが、本格的な大発生となったのは1880年(明治13年)8月のことである。このときは、発生したバッタの大群は日高山脈を越え、胆振国勇払郡を襲った。蝗害はさらに札幌を経て空知地方や後志地方へ至り、また別の群れは虻田へ達した。陸軍はバッタの群れに大砲を撃ちこむなどして駆除に務めたが、入植者の家屋の障子紙まで食い尽くし、各地で壊滅的な被害をもたらした。翌1881年(明治14年)にも再び大発生し、この年は渡島国軍川までバッタが進出した。当時の記録では、駆除のため捕獲した数だけで360億匹を超えたという。しかし、まだ入植が始まっていない十勝国では耕地が少なく、目立った被害は出なかった。
(中略)
蝗害はその後も続き、1883年(明治16年)には道南の日本海側まで達した。晩成社でもバッタの繁殖地の調査を行い、十勝川上流の然別で大繁殖地を発見している。開拓使ではアイヌも動員して繁殖地の駆除を行い、1884年(明治17年)には延べ3万人のアイヌが動員された。それでも蝗害は止まらず、北海道では翌年の予算に180億匹のバッタ幼虫の駆除費用を計上するはめになった。しかし、1884年(明治17年)9月の長雨によって多くのバッタが繁殖に失敗して死滅し、蝗害はようやく終息した。しかし、蝗害は昭和の初めまで断続的に観察された。
本別町史に載っていたので、蝗害があったことは知っていました。が、まさか何年にも及ぶここまでの被害だったとは想像していなかったです。
東日本大震災の時にも注目された、先人が残した災害の時に作られた石碑、とても大事。人は忘れやすいし色んな技術が発達すると、おごりが出て今日では解決しているものと思がち。その地域に伝わる言い伝えや、こういった石碑などは何世代も超えてやってくる災害への先人たちから未来の私たちへの大事な贈り物。私たちも次の世代へ送り続けなければなりません。数年前、オーストラリアでも蝗害の被害があったとニュースになっていたけど農薬が発達している現代でも防ぎきれないのなら条件が揃ったらまた北海道でも起こりうるのではないでしょうか。
バッタ塚を建て、未来の私たちに警鐘を鳴らしていることを私は生かせているのだろうか。(オーガニックを選んだ自分が少し怖くなりました。)
北海道は歴史が浅いけど、先住民のアイヌの方達に伝わる言い伝えをきちんと読み解く必要もあるのではないでしょうか?
トノサマバッタ大繁殖の原因
バッタが大量発生した原因はなんだったのでしょうか。
蝗害が起きる数年前に襲った台風による大洪水が原因。
それではまたウィキから。
1875年(明治8年)9月27日、道東の太平洋沿岸を台風が直撃し、未曾有の大洪水を引き起こした。十勝川と利別川が合流するあたりでは膨大な樹木が流失した結果、広い範囲で沖積層が露出し、ここにヨシやススキなどイネ科の植物が生い茂る草原が出現した。さらにその後の数年間好天が続いたため、トノサマバッタの大繁殖に適した環境が整った。
(中略)
蝗害が津軽海峡を渡って本州へ波及することを懸念した中央政府はトノサマバッタの発生源の調査を命じた。14名の係官が派遣され、蝗害の被災地を辿ってバッタの群れがどこからやってきたのか現地調査を行った結果、冒頭に述べた十勝川流域の広大な草原に至った。
…でも、ちょっと気になることがあったのよ。
いろんな十勝関連の郷土史を読むと必ず出るのが1879年(明治12年)に起こったエゾシカの大量死。(このことについてもウィキにも載っていました。気になる方は『エゾシカ大量死』で検索してみてね)
「帯広の生いたち」引用
『明治12年2月、十勝地方一帯は大雪に加うるみぞれを以ってし、鹿が雪掘って食うことができず、むなしく猟師にとられ、または餓死し、鹿の産地として有名な利別川畔の如きは、鹿の屍が山となし、夏になると腐って沿岸十数里の間河水を飲むことができなかったといわれ、急激にその数は減少した。』
『明治13年には、禁猟区を設けて十勝国一円をこの中に加えたので、鹿猟は急激に衰えた。鹿皮に望みを失った人々は、その落角に目をつけた。これを拾い易くするため、乱暴にも原野に火を放ち、そのため十勝原野には四季を通じて炎々たる野火。』『1箇年に、7〜8万頭分の落角が拾われたという。』
火を放ったことやもしかしたらエゾシカの大量死も
トノサマバッタの大繁殖に適した環境に
拍車をかけたのではないかってこと
火を放ったほうが害虫駆除になると聞くけど
バッタの駆除のために火を放ったではないのか
それでたまたま鹿の角が取れたってことは……
2016年(平成28年)に十勝では大変な豪雨災害があったばかり、当時とは環境が違うとはいえ、明治初期に大洪水の数年後に蝗害が起きたことは気に留めておきたい。
エゾシカの大量死によって、この時代に住むアイヌの方の生活が困窮していったことも忘れてはいけません。
蝗害調査〜とかち内陸の開拓へ
またウィキからの引用
蝗害が津軽海峡を渡って本州へ波及することを懸念した中央政府はトノサマバッタの発生源の調査を命じた。14名の係官が派遣され、蝗害の被災地を辿ってバッタの群れがどこからやってきたのか現地調査を行った結果、冒頭に述べた十勝川流域の広大な草原に至った。これが日本で三番目に広い十勝平野の「発見」である。この報告を耳にした晩成社は十勝平野への入植を決め、これが十勝内陸への初めての本格的な入植となった。
蝗害はその後も続き、1883年(明治16年)には道南の日本海側まで達した。晩成社でもバッタの繁殖地の調査を行い、十勝川上流の然別で大繁殖地を発見している。
こうしてトノサマバッタの大繁殖が、皮肉にも十勝内陸の開拓につながっていく。
晩成社が蝗害調査によって十勝に入植するきっかけになったとは知りませんでした。
注)晩成社でもバッタと野火の被害にあったと記録が残っています。
トノサマバッタはなぜ大繁殖するの?
バッタは人口密度バッタ密度が高くなり世代交代していくと見た目が変化し性格も集団で行動し凶暴になるようです。
これもまたウィキから
バッタは蝗害を起こす前に、普段の「孤独相」と呼ばれる体から「群生相」と呼ばれる移動に適した体に変化する。これを相変異と呼ぶ。
群生相の孤独相に対する外見上の特徴は、
・孤独相に比べて暗色になる。
・翅が長くなる。
・足が短くなる。
・頭幅が大きくなる。
・胸部の上が孤独相は膨らんでいるのに対し、群生相はへこんでいる。
・(電子顕微鏡で見ると)触角の感覚子の数が減少している。
などが挙げられる。行動上の特徴は、
・群生相の個体は互いに近づこうとする(孤独相の個体は互いに離れようとする。
・ただし、孤独相のバッタも群れに入れると群生行動を共にする)。
・産卵前期間が増加し、羽化後生存日数が減少し、産卵回数、産卵数が減少する。
・孤独相の時には食べなかった植物まで食べるようになる。
などが挙げられる。
孤独相と群生相では、まるで違う種類のバッタに見えます。
緑の綺麗な正義の味方から黒っぽい絵に描いた悪役のようになります。
群生相?
種類は一緒?
蝗害の駆除作業と捕獲料金
本別町史より()内は参考までに書き加えた
バッタ塚 本別地方の二地区(チエトイ地区と美里別地区)を含む十勝外四郡八地区の産卵地の大規模な駆除事業は、十七年に春と夏の二回にわたって行われている。
春は蝗卵(トノサマバッタの卵)の駆除を自的としたもので、十勝で雪がもっとも早く消えるビリベツと上浦幌から着手している。ビリベツの駆除の対象となった地区の広さは十万坪(約33㌶)で、このうち卵のある土地を、五月四日から同月十三日までに一万三千百三十八坪(約4.3㌶)余堀起している。卵のある土は百坪に一塚の割合いで積立て、その表面を卵のない土でおおい打ちかためたというから、この地区だけでバッタ塚がこのとき百三十以上できたことになる。ただし、このビリベツには芽登も含まれている可能性もある。チエイト地区の駆除対象となった面積は十五万坪(約50㌶)で、このうち卵のある土地を五月十日から六月三日までに二万六千五百二十九坪(約8.8㌶)余掘起している。ここでも二百六十五以上のバッタ塚ができたことになる。上浦幌地区の対象面積は二十万坪(約66㌶)で、五月四日から同二十四日までに堀起した卵のある土地は、六万六千四百二十六坪余(約22㌶)であった。これら三地区の堀起し賃は、一坪当り一銭三厘であった。なお、ビリベツ以北には、駆除対象地はなかった。
夏の駆除事業は、春の堀起からもれた蝗卵が孵化して、サナギとなったものを捕獲するのを目的としたもので、春に駆徐事業を実施した八力所のうち六ヵ所が対象となっている。本別地方ではビリベツ、チエトイの両地区ともに対象となり、七月八日から八月七日までの間、サナギの捕獲が行われている。このときのサナギの捕獲量は、ビリベツ地区では六百四十二石余(約116㎘)、チエトイ地区では百四石余(約19㎘)であった。捕獲したサナギは、それぞれの場所に穴を掘って埋めたものとおもわれるが、はっきりしたことはわからない。捕獲料金は一升当り一銭のところもあれば五厘、六厘のところもあった。上浦幌地区では高く、一升当り二銭および二銭五厘となっている。白米一升が十銭から十二銭、酒一升が四十銭、タバコ一玉十四銭くらいの頃のことである。もちろん、賃金に和人、アイヌの差別はなかった。
こちらのサイト「明治時代の「1円」の価値ってどれくらい?」によると明治30年頃の物価で当時の1円が3800円、給料換算だと当時の1円が今の2万円だそうです。当時は物価に比べ人件費が安かったということですね。
上記のサイトを参考に表にしてみました。
ちなみに15000坪が東京ドーム1個分だそうです。
対象面積 | バッタの卵 掘り起し面積 |
掘り起し賃 0.013円/坪 |
現在の価値 物価換算 ×3800円 |
現在の価値 給料換算 ×20000円 |
|
チエトイ 春25日間 |
15万坪 (約50㌶) |
26529坪 (約8.8㌶) |
約345円 | 約131万円 | 約690万円 |
美里別 春10日間 |
10万坪 (約33㌶) |
13138坪 (約4.3㌶) |
約171円 | 約65万円 | 約342万円 |
上浦幌 春21日間 |
20万坪 (約66㌶) |
66426坪 (22㌶) |
約864円 | 約328万円 | 約1727万円 |
肝心の尽力した人数がわからないとわかりずらいですね。
1日当たりの表を作ってみました。
(給料換算1万円を1日の日当と仮定)
バッタの卵 掘り起し面積 1日当 |
掘り起し賃 0.013円/坪 |
現在の価値 物価換算 ×3800円 |
現在の価値 給料換算 ×20000円 |
一人当の 面積/1日 |
|
チエトイ 春 |
約1061坪/日 (約0.35㌶) |
約13.8円/日 | 約5.2万円/日 | 約27.6万円/日 | 38坪/1人 |
美里別 春 |
約1013坪/日 (約0.34㌶) |
約17.1円/日 | 約6.5万円/日 | 約34.2万円/日 | 30坪/1人 |
上浦幌 春 |
約3163坪/日 (約1.05㌶) |
約41.1円/日 | 約15.6万円/日 | 約82.2万円/日 | 38坪/1人 |
どのくらいの人数が従事していたかを逆算してみました。
現在の給料換算(日当1万円)でおおよその計算してみると(物価換算だと日当1900円)、憶測で正しい数字ではありませんが
約30人の1組で1日に1000坪掘り起し10塚ほどを作っていたのでしょうか。
(『卵のある土は百坪に一塚の割合いで積立て』とある)
この頃晩成社が当時で5万円(上記の給料換算で現在の価値で10億円、物価換算だと約2億円)の出資を受けオベリベリ(帯広)の開拓がいかに大事業だったのかがわかる。
小さい頃から何気なく見ていたバッタ塚、そんな物語があったとは。