オフイビラ源吾農場の紹介

gengo

北海道十勝本別町の負箙(オフイビラ)地区で2013年から有機農産物(オーガニック)の栽培に取り組んでいます。2018年8月からは全ての畑で有機(オーガニック)管理を行なっています。

どこで買えるの?

2020年6月より 食べチョク  さんにて ネット販売↓ はじめました。

食べチョク
オフイビラ源吾農場の産地直送の商品
オフイビラ源吾農場の産地直送の商品
 

どんなものを作っているの?


有機(オーガニック)大豆
ユキホマレ


有機(オーガニック)小粒大豆
ユキシズカ




有機(オーガニック)小麦
きたほなみ


有機(オーガニック)小麦
キタノカオリ




有機(オーガニック)金時
北海金時


有機(オーガニック)じゃがいも
さやあかね




有機(オーガニック)大豆
鞍掛(くらかけ)大豆


有機(オーガニック)小豆
エリモ小豆


有機(オーガニック)への取組み

・2013年8月から有機管理(農薬・化学肥料を使わない管理)※開始。
・2014年初めて有機管理としての大豆4㌶と小豆0.9㌶の種をまく。芽を出した後、虫食いがひどい一部の大豆1.4㌶の畑は他の作物の種をまき直し通常管理に。大豆2.6㌶と小豆0.9㌶に縮小し有機管理。
・2015年10月有機(転換期間中)認証を取得 11.65㌶
・2016年9月有機認証(有機転換期間中を含む)面積26.75㌶
・2017年9月有機認証(有機転換期間中を含む)面積33.65㌶
・2018年8月から全ての畑(約45㌶)で有機管理
・2018年9月有機認証(有機転換期間中を含む)面積40.65㌶
・2019年9月全ての畑(約45㌶)で有機認証取得予定(有機転換期間中を含む)
これでようやっとスタートラインに立てる気がします。続けられるかどうかはこれからです。

※(法律上、一部認められている農薬、化学肥料がありますが、オフイビラ源吾農場では現在使用しておりません。将来止むを得ない場合のみ、有機で認められている資材を使用して有機認証を受ける可能性はあります。)

合わせて読みたい
有機農業、有機農産物って、な〜に?
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畑はどんな順番で作っているの(輪作)?

基本的な例

1年目の春に大豆の種を植えて秋に収穫します。
(他のまめ類orじゃがいもだったりします)

秋の収穫後2年目の春までに牛の糞と麦わらを混ぜて作った堆肥を畑にまきます。
(試験的に堆肥をまかない畑もあります。)

2年目 からし菜orオーツ麦orひまわりorベッチor(またはそれらを混ぜた種)などの種を植え育て花が咲きしばらくしてその後収穫しないで土と一緒に混ぜ込みます緑肥

2年目小麦(秋まき用)の種と白クローバの種を混ぜて植えます

3年目の夏に小麦収穫し、残ったクローバを育てます。

3年目の秋にクローバを土と一緒に混ぜ込みます。(緑肥)

4年目(1年目に戻ります)

有機(オーガニック)に取組むきっかけ

pirkaamam』さんの取組をみて、真似ました。

穀物集荷会社の営業の方が持ってきた小麦畑の写真をみて、
有機(オーガニック)管理している聞き驚き、
有機肥料も堆肥も使っていないと聞きまた驚き、
有機栽培に対するイメージが変わりました。
この畑の農家さん(「pirkaamam」さん)の取組を真似てはじめました。

以前から有機栽培に興味はあって取り組むならと漠然と頭の中でシミュレーションはしたことはありますが(上手くイメージがわかず自分にはできないと諦めていました。)、そもそも小麦は有機では無理と決めつけていて頭の中にはなく、想像していたどれとも違うアプローチの仕方とシンプルな方法で驚いたのを覚えています。それから、葛藤もありましたが有機栽培に挑戦しております。

早くから有機(オーガニック)栽培に取り組んできた先駆者達とその苦労のおかげで風当たりも強くなく、合わせて地域の皆様にも恵まれてここまで続けられています。

自然栽培について

当農場では、自然栽培を行うことを目的としていません。

自然栽培については(定義がいまいちわかっていませんが)、理想ではあります。外部からの有機物を利用しなくても畑の生産力が維持できれば必要ありません。が、地域で調達できる有機物を利用し畑に炭素を取り込むことは、畑の力をつけることに、そして何より環境にとって重要だと考えています。
オフイビラ源吾農場では、環境に悪影響を与えない程度に堆肥を投入する畑を基本に、一部、外部からの有機物を投入しない畑(緑肥のみ投入)を試験的に作っております。

農場の名前の由来

開拓が入る以前に、オフイビラ源吾という人物がいたことを知って、この地を去っていた多くの名もなき先人達を重ね合わせ、名付けました。

今現在オフイビラ(負箙)という住所名はありません。自治会名として残るだけです。(過疎が進んで自治会の統合があると名が無くなるのではと思っています。)なんかもったいなく感じていた頃地域の開拓100周年で歴史を調べていたら本別町の開拓の前にオフイビラ源吾という人物が住んでいたことを知りました。

源吾のようにのちにあまり知られず、名もなき先人たちがこの土地を開拓して行ったこと。先に開拓に入った別の地区では入植した人の子孫が代々受け継がれていますが、オフイビラ地区では開拓記念碑に刻まれた入植した人で残っている子孫は一件、しかし農業は続けておらず、開拓した土地を他の人に受け継がれています。これは何を意味するのか、今有機農業を行っていますが、肥料や農薬が出てきてようやく農業が成り立った地域なのかもしれません。大規模な開拓が入る前に蝗害(トノサマバッタの大発生による被害)があったということは、自然に任せていたら害虫や病気の被害がないなんて幻想なのかとも考えさせられました。
大規模畑作有機農業の北海道の潜在力はあります。町内でもこの人が取り組んだら足元にも及ばないだろうなと感じる人が何人もいます。もう少し取り組む人が増えれば新しい技術やよりリスクが分散され安定供給にもつながるのではと感じていますが、オフイビラ源吾農場がお手本にさせて頂いた農家さんの農法はシンプルでリスクは低いのですが、真似した当農場に魅力がないのかあまり広がっていません。取り組む人が欧米並みになればかなり面白いですし、ユーザーさんにとっても選択する幅が増えることは良いことです。
当農場が新たな歴史への橋渡しができ、そのあと名もなき先人たちのように歴史に埋もれることができればありがたいです。消えゆく名前ですがオフイビラやオフイビラ源吾の名をわずかな人にでも知ってもらえればという思いで勝手ながらオフイビラ源吾農場と命名しました。

負箙(オフイビラ)とは

以下本別町史から引用

〔知里小辞典〕によると、Uhuy-piraウフイ・ビラ「燃える・崖」となる。また、uhuy-pitarウフイ・ピタルならば「燃える・川原」となる。

なお、このあたりの崖には、亜炭層がはさまれている。
(町内には勇足炭鉱および東炭鉱が近年まで操業していた)

位置は現在の勇足西一の、利別川右岸の崖を指している。

旧負箙村は今のチエトイ地区と負箙地区と一部西勇足地区を含んだものと考えている

合わせて読みたい
負箙(オフイビラ)-アイヌ語地名
負箙(オフイビラ)-アイヌ語地名

オフイビラ源吾とは

明治15年(1882年)十勝帯広の開拓者、晩成社の依田勉三一行が入植地を選定しに十勝各地を回り、本別を調査する際、オフユビラ源吾の家に泊まった。(鈴木充太郎日誌では倭人であったと記載)

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オフイビラ源吾と晩成社
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鹿を討つ猟師として入った人なのか

明治十五年の春の大雪のために、多くの鹿が斃死してからは、各地に住んでいた和人のほとんどが離散している。

それとも当時バッタによる甚大な被害のためトノサマバッタの駆除事業に人夫なのか

明治十三年から十七年まで、連続五ヵ年にわたったトノサマバッタの大発生による、いわゆる蝗害は、北海道開拓史上、異色の災害であった。明治十三年八月、十勝国河西・中川両郡に発生したトノサマバッタの大群は、付近の青草を食いつくしたのち、風にのって西に向い、同月二十一日には日高国にはいり、数日後には胆振国に達した。ここから分かれた一群はさらに北進して石狩国を襲い、被害は十五郡におよんでいる。

本別町史より引用、参考

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バッタ塚  蝗害〜十勝内陸の開拓へ
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