ラウンべ地区

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本別町負箙(オフイビラ)地区から奥に行くとラウンべ地区があります。以前までは自治会として残っていたのですが、過疎化で戸数が減り平成12年に自治会は解散して一部は私達の自治会に編入しています。
ラウンべ地区は以前多い時で24戸もの世帯があったそうです。小学校の分校もありました。青田公園という釣り堀や公園を売りにした施設もありました。負箙(オフイビラ)小学校があった頃に青田公園まで遠足に来たと地域の先輩に聞いたことがあります。

そこの地区に、97歳(2019年)になるおじさんが住んでいます。

おじさんは今でも山仕事をします。刈り払い機やチェーンソーを持って小型トラクタにのって山へいきます。今は免許を返納しましたがつい数年前まで125ccのスクーターを乗りこなし、街まで買い物に行っていました、スーパーおじいさんです。

木彫りも趣味で、干支の彫り物をして自治会のみんなにプレゼントしてくれます。もう先は長くないからと、今は虎の彫り物を作っています。精悍な顔つきは難しいらしく、これは子虎と笑っていました。味わい深い心の暖まる作品です。

たまに遊びに行くと木彫りの手を休め美味しいお茶をごちそうになります。おじさんは山の湧き水を引いて自分で管理しています。その水がとても美味しいのです。その水で入れるお茶が美味しいのです。

ここはパワースポット。私も田舎に住んでいますが、ここはただの田舎では感じ得ない、時間の流れがどこか違う、何とも言えない空間です。

ある時、いつものように美味しいお茶をごちそうになりに行くと、いつも冗談を行って笑うおじさんが珍しく戦争のころの話をしました。

お父さんが日露戦争に言ったこと。お父さんの持っていた日本刀の話。部隊の先輩から可愛がられた話。満州に行っていた頃の話。冬の寒さが続くと、満州での冬を思い出すとも。

その中で印象深く聞いた話があります。

満州に行っていて、本土が危ないからと部隊が呼ばれ、日本に戻っても、先に出航した弾薬を積んだ船は攻撃にあい沈められ、部隊は四国についたものの弾はなく四国の山中で、弾のない銃を持って、ただただ上空を飛ぶグラマンを眺めるだけだったそうです。
そして四国の山中で終戦を迎えたそうです。その後なかなか北海道に帰ってこれず家族も戦死したとあきらめていたそうで、帰ってくればきたで食糧難だったのであまり歓迎されなかったと冗談なのか本当なのか笑って話してくれました。

後に戦争当時の日本の状態を知れば知るほど、負けるとわかっていて戦争を続けた上層部の判断を許せない、戦争はダメだ、とも言っていました。

「戦争はダメだ」とかいうタイプに見えないですし、戦争のお話するのも意外でした…

 

 

 

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